秀工業の歴史は現会長である土屋秀人氏が1971年に大工として土屋工務店を創業したときから始まる。当時の秀工業は誰もが驚くようなスピードで成長をしていった。それは「秀が来れば人が集まる」といわれるほどの施工技術にあった。裸一貫で創業した会社は5年目にして大手ハウスメーカーから仕事をいただけるようになり、1978年に秀工業株式会社へ社名変更、年商6億円まで成長を続けた。
秀工業のサービス力は高く、時間が経つにつれ家を建てるだけではなく「家を壊す」部分も依頼されるようになってきた。
時に1989年、ある建物を解体したときに、想像以上に利益がでてしまうという経験をする。
案件を自社でも受注をしていこうと考え、解体工事業者に挨拶の連絡をした際、非常に乱暴な対応を受ける。仕事以前の問題なのである。このとき、会長である土屋は感じた「秀工業の解体は儲かる」と。
家を建てる側から壊す側に変わろうとも、秀工業の仕事に対する姿勢は一切変わらなかった。
家を建てるほうはお客様に一生の生活を作る仕事に真摯に向き合っているのに対して、壊すほうは、なぜあれほどに勢いに任せて物事を進めていくのか?会長土屋には理解はできても、納得が出来るものではなかった。
「ハウスメーカーと同じ気持ちで解体工事に向き合う」
その企業姿勢は瞬く間に多くのお客様の信頼を勝ち取った。
必然的にサービス強化にも注力をする。
「家を壊すだけでは、もったいない。そこから更に一歩踏み込んだ提案は出来ないだろうか?」
もちろん、そのとき家を建てる段階から事業にしようという答えもあった。
しかし、競合が多すぎる。
土屋は敢えて、リサイクルに目を向けた。時に1995年。
初めての廃棄物処理施設である焼却炉を建設。
2001年には自社の複合型施設を設置するに至った。更に、2004年には農業へ展開していく。
1970年代に迎える住宅ラッシュ。そして、それから40余年の時間が経ち、多くの建物が解体を迎える時期がやってきています。しかし、当時の家を建てさせようとする制度が残り、その多くが今も尚建ったまま経過している。かたや、行政は空き家に対して問題視するようになり、空き家条例なるものが動き始めることになる。解体工事業はいつも家を建てるという仕事の裏方業務であった。しかし、これからは違う。解体工事がひとつの事業として求められる時代がやってきているのだ。
29番目の建設業として、まもなく解体工事業がひとつの業として認められることだろう。そのとき秀工業は先陣を切ってその市場を突き進む。「その他多くの会社」と一緒ではない。家を建てる会社と肩を並べる解体工事業になるのだ。
秀工業のもっとも特徴的なことに、多くの解体班(チーム)が会社に属しているということである。
一般的な解体工事業の場合、下積み時代に解体のノウハウを学び、その後独立していってしまうのが
一般的である。なぜならば、そうしたほうが収入が上がるからだ。しかし、秀工業の場合は違う。
秀工業は定着統制が難しいという解体職人を一社員として定着させることに成功している。
その理由は何か?それは、職人を解体工事にだけ集中させることができる、その他部門の存在であり、
また、秀工業の解体品質の高さゆえにいただける感謝の言葉に職人自身が誇りを持っているためである。会社としても、これだけ多くの職人を抱えることは財産である。ただ、それだけではなく、これだけ多くの
職人を雇い続けることが出来るからこそ、大手ハウスメーカーの信頼を勝ち取ることが出来るのである。
秀工業は他社と競争はしない。
なぜならば、競争に入り込み、利益が出なく会社全体が疲弊し始めてしまったら、お客様を感動させることはできないためである。
「例え高くても、納得いただける品質であれば必ず仕事は頂ける」
それが秀工業の考え方である。そのため、秀工業は見積りとは決して言わない。あくまでも「価格提示」なのだ。また、秀工業の提示する金額は時に「高い!」といわれることもある。しかし、逆に聞きたい。リサイクル施設を有している会社が適正と考える金額以下で請ける会社があったとして、何の費用を削っているのか?と。
常に、ご理解頂けるお客様と、真正面に向き合っていきたい。
そして、両者で手を取り合い、お客様に新しい価値を提供していきたい。それが秀工業の想いなのだ。
秀工業が目指すことは、新しい業界を作り上げること。
決して新しいことをやろうとは考えていない。今の事業を更に磨き上げ、お客様に満足ではなく感動を届けられる企業になりたいのだ。そして、既存の業界の枠を超えた、新しい業界イメージを作り上げること。それが秀工業の使命であると考えている。